胡炜と彼の創作について
中国画にとっての現代における古典と伝統の意義を疑う者はいないであろう。伝統を引き継ぎつつ古いものの良さを新しいものに生かすことは、まさに“中国画”の特徴と目的ではないのか?しかし事実は非常に複雑である。第一に伝統とは何か?形式、言語、それとも中国画特有の媒介材料(例えば筆、墨、紙、硯)を指すのか?精神か、気質か、それとも審美の方式を指すのか? 第二に、“新しいもの”とはどういうものか? 内容が新しいのか、題材が、形式が、言語が、それとも媒介材料が新しいという事なのか? 観念が新しいのか、内包が新しいのか、それとも審美の方式が新しいという事なのか、いずれにせよすべてを語りつくすことはとうていできない。これらの事をはっきりさせるという事は生易しいことではないのだ。歴史の発展には独自の特性と軌跡があるが、ならば現在に至るまでの中国画の発展における法則と軌跡とは、一体どのようなものなのであろうか?
いわゆる絵画とは、表面的に見れば一枚の紙に絵を書けばそれでよい、至極単純なことであるが、しかしながら実践と理論は往々にして人々を困惑させ、ためらわせ、苦痛にさえ至らしめる。― それはただ“画”そのもののみならず、どのような“画”がいわゆる“良い”画なのか、という点においてである。もちろん、画家個人にとってはどんな選択肢も正解である。どの風格、技法にも(新旧にこだわらず)それぞれに存在価値がある。しかし学術や美術史の視点から見ると、しばしば全然違う評価になるのである。
胡炜は自らの実践でもって明確な答えを出した。それは彼の年代の経歴と実践を鑑みるに、十分知恵と努力と勇気が必要なことであったろう。
彼は本科生時代、どの分野においてもバランス良く進歩、発展していった。興味は幅広く、あらゆる方面から吸収し続けた。専門分野を発展させるのと同時に、彼は文化系科目も非常に優秀であった。画家たちにとって頭の痛い英語でさえ、彼にしてみればとるに足らないことであった。研究生時代に入り、大きな状況の変化がおとづれた。工筆画に対する抑えきれない興味、とくに美しさを備えた人物、花、鳥などへの興味である。
伝統への深い研究を経て、彼は彼自身の一生に重大な影響を及ぼすかもしれないある見解を導き出した。それは、“中国画における初期の工筆画の流派を断絶させてはならない”“中国伝統の中にある正しい源流を、この現代において大いに発揚していかなければならない”というものである。胡炜の創作と学習はより一層自覚的になった。研究生2年生の時、彼は何らかのインスピレーションと啓示を得たかのごとく、当時にして相当尺幅のある大規模な重彩工筆画と淡彩工筆画をたて続けに制作した。さらに称賛に値するのは、彼は決して歩みを止めなかったことである。修士課程終了に続いて博士課程終了後も彼は創作に精を出し、すばらしい作品を制作し続けた。
胡炜の作品を細部にいたり鑑賞すると“流れる水のごとく勢いにあふれ、生命力溢れる春”のように濃密で精巧な筆のタッチにも、あるいは“言葉なく落ちる花びらのごとく淡い菊のような人”に例えられる作品の優美さの中にも、ある種の寂寥感が漂っている。作品中の植物、枝、藤、花、実、皆いづれも整然と、かつ奥行きが広がりながら並び積み重ねられ、生命のリズムと歩調を合わせつつ自然の本質を捉えている。作品中の鳥類は擬人化された風格が与えられている。それらは俗世間には染まらない傲慢さと同時に、無欲の本質を秘めている。
“輪郭を描き色を塗る“ 事は、文人画と院体画の共通言語であるが、胡炜は現代社会に生きる感性溢れる一個人として、彼の創作作品に生き生きした精巧さを与えただけではなく、文人画のもつ奥ゆかしさともに現代風の趣向をも同時に与えている。
今日の中国画界では、例えば八大、石涛、董其昌、吴昌硕などの明清時代の写意画に対しての度を越えた追従により、晋、唐、宋、元等の初期時代の工筆画の価値が忘れ去られようとしている。
中国画界と現代社会では、古典傑作の樹である初期の工筆画への認識が足りないだけではなく、ことさら軽視されている。いわゆる“中国画”の趣味と研究は主に明清以降の写意画に集中している。このような状況において、胡炜の伝統に対するしっかりとした認識と理解は大変重要で喜ぶべきことである。もちろん、中国初期工筆画の正しい伝統を大々的に広め、晋、唐、宋、元の工筆画の威風を奮い起こすことは、今後更に多くの胡炜の作品から見られることを期待するが、それと並行して有識者が一緒に努力していくことも、我々は期待するのである。